第五話 架橋での遭遇
五月四日、国民の休日。俺にしてみれば、GW二日目だ。
俺は『架橋市』に来ていた。
理由は、特にない。強いて言えば、暇だったからである。それに、最近は架橋に来ていなかったので、ふらっと来てみた。目的はないが、歩くだけでもそれなりに面白い街である。ただ一つ言わせてもらえば、やはり一人で来なければ良かった、と思う。本当は仏が丘町内を散歩する予定だったのだが、駅前に来たら架橋に行きたくなったのだ。
しかし、大体俺が歩く場所は、悲しいかな決まっているようなものだ。
先ずは、駅に最寄りの本屋『Book池田』に入る。軽く漫画のコーナーを見た後に、音楽系の情報誌に目を通す。特に注目するような情報がないと確認した後は、『Book池田』を後にした。
続いて、そのBook池田から歩いて五分、『Great Hill』という楽器屋に到着。結構広く、スコアも豊富だ。ここは元々本屋だったせいか、楽器よりもスコアが充実している嫌いがある。俺はベーシストだが、ベース以外の楽器を見るのも好きだ。ここに来ると、スコアを見る前に、必ず楽器を見る。
やはりメインはギターだ。スコアの方が充実しているとは言え、楽器の方もそれなりに揃っている。主に初心者から中級者向けの楽器が多い。上級者向けのものもあるにはあるが、数は少ない。ベースは数はギターの半分以下しかない。上級者向けのベースも、やはり少ない。
他の楽器は、ドラムを中心としたパーカッション(打楽器)と電子ピアノ、ブルースハープくらいだ。どれも今の俺には興味のないものだ。敢えて興味のあるものを上げれば、電子ピアノだろうか。昔、幼稚園の年長から小学六年頃まで、ピアノを習っていたからだ。しかし、俺としては電子ピアノよりも、ナチュラルなアコースティックピアノの方が好きなのだ。
そうして、いよいよスコアのコーナーへ移る。と言っても、いくら最近来ていなかったとは言え、そうそう変わった物が置いてあるわけではなかった。ましてや、俺は日本の曲はあまり聴かず、専ら洋楽中心なので、衝撃を受けるような楽譜はなかった。洋楽のスコアは、邦楽のスコアほど頻繁に入荷されない。大体、洋楽のスコアで俺が欲しそうな物が出たときは、早紀やジョニーなどから、何らかの情報が入る。俺が雑誌などで前もって知ることもある。
Great Hillを出た後は、服屋『Roads』に向かう。もうGWだし、アロハシャツも入荷されていることだろう。去年の夏頃から、俺はアロハシャツにはまっているのだ。だが、何かレアな物があったときのために多少の金は持っているものの、今日は今のところ買い物する予定はない。俗に言う、ウィンドウショッピングというヤツだ。冷やかしと言っても差し支えないが……。
アロハシャツを見ていて、ふと目に留まった物がある。椰子の木が生えている絵がプリントされた、黄色いアロハシャツだ。純粋に、いいと思った。生地もレーヨンで、柔らかくて着心地が良さそうだし、おまけにツヤがある。よく見ると、この辺一帯のアロハシャツは、色や柄は違えど、どれもそんな生地が使われている。
ふと値段を見てみると、『一六〇〇〇』と書かれている。ちょっと俺の小遣いでは買えない。
「ほぉ、お目が高いな」
突然声をかけられた。振り返ると、そこには口ひげをした男がいた。歳は俺よりも五歳は年上だろう。しかし、俺はその男のことを知っている。
「何だ哲也さんも来てたんだ。お久しぶり」
「全くだ。お前、もう高校生になったんだろ?」
その言葉で思い出したが、最後に哲也さんに会ったときは、俺はまだ中学生だった。受験直前くらいだ。
「まぁね。仏が丘高校だよ」
「何で架橋の高校に来ねぇんだよ」
「ヤだよ、遠いから」
俺がそう言うと、哲也さんは苦笑した。
彼の名は『加納哲也』。哲也さんと知り合ったのは去年の夏だから、まだ知り合って一年も経っていない。
「んで、何だ、今日はアロハシャツを買いに来たのか?」
「そう言う訳じゃないけど……ま、近くに来たからちょっと見に来ただけだよ」
俺がアロハシャツにはまった原因は、この哲也さんだ。この哲也さんからアロハシャツをもらったのだ。椰子の木やパイナップルなどがプリントされた、黒いアロハシャツである。
「何だ、それじゃ冷やかしか?」
「あのね、そもそもいきなりあのアロハシャツをくれた哲也さんにも原因はあるんだぜ。最初にアレ着ちゃったら、俺くらいの小遣いで買えるアロハが買えねーよ」
哲也さんからもらったアロハシャツも、俺が見ているアロハシャツくらいのランクだ。もらった当初は、人にあげるくらいだから、大したことのないものだと思っていたら、大違いだった。そして、そのアロハシャツの気持ちのいいこと。生地はレーヨン100%だが、そのレーヨンにもランクがあって、ランクが低いとそれほど着心地も良くない。貰ったアロハシャツのレーヨンは上質のようだ。俺の小遣いで買えるアロハが買えないというのは、その程度のアロハシャツは着る気にならないということだ。
「はっはっは、そうかそうか、悪い悪い。ところで、今日は一人か?」
「見ての通りだ」
「寂しいヤツだな、一人で来るなんて」
「うるさいな……いいんだよ、俺は風任せで行動するんだから」
思わず口を尖らせながらそう言ってやると、哲也さんは笑いながら、
「俺はお前のそう言うところ、気に入ってるんだがな。あんまり無茶するなよ。例えば、ヤクザに喧嘩売ったりとかな」
そして意地悪そうに笑った。
「分ぁったよ。んじゃ、俺そろそろ行くよ」
「おお、そうか。またな」
「バイバイ」
哲也さんと別れ、Roadsを出た。
腕時計を見ると、午後二時を示している。今が一番暖かいときだ。天気は快晴で、どちらかというと暑い。
俺の次なる行く先は、商店街『縞田通り』。ここは年中歩行者天国で、車やバイクの通行が一切ない。早朝だけは、品物を入荷するための車だけ、進入が許可されるという話を聞いたことがある。
今日がGWということで休んでいる店もあるが、大半は営業中だった。そして、通りは日曜日同然に混雑している。いや、日曜日より少ないかも知れないが、それも微々たるものだ。この通りで一番多い年齢層は、恐らく俺くらいの年齢だろう。
とにかく、ここ縞田通りに来れば、大概の物は揃っている。それに、見ていても飽きない物が多い。小さな専門店も多いので、結構マニアックなものも豊富だ。例えば、縞田通りの入り口スグにある楽器屋『有田楽器』は、店は小さいものの、初心者立入禁止のような雰囲気を受ける店だ。何せ置いてある楽器の最低ラインが十五万円なのだから。噂では、平均値段五十万前後だとか。中には、どこぞの巨匠のホセ何とかが作った、百万円を越すアコースティックギターもある。何回か入ったことがあるが、俺はここで絶版になったはずのスコアを手に入れた。どうやら、楽器もスコアも、店の主人が気にいた物しか仕入れないらしい。ほとんど道楽だ。店番をしているのは四〇くらいのオバサンだが、どう見てもそんな頑固そうな人には見えない。俺やジョニーの考えでは、あのオバサンの旦那が凄腕のギタリストか何かで、専業主婦だった妻に退屈させないように、この店を始めたのではないかという結論に至った。勿論、真実は闇の中だ。
そしてその有田楽器は、本日休業である。
俺はこの店で楽器やバンドスコアを見るのが好きなので、今日は誠に残念だ。今日がGWでなければ、営業しているだろうに。
「何だ、つまんねぇ……」
俺は『本日休業』の張り紙に舌打ちをし、店に背を向けた。
「……啓祐君?」
「あっ……」
心臓が大きく波を打った。
「麗ちゃん……」
「こんにちは。啓祐君も架橋に来てたんだ」
横須賀麗子ちゃんがいたのだ。
「あ、うん。こりゃ偶然……こんちは」
「あれ、啓祐君、今日は一人なんだ。珍しいね」
と、麗ちゃんは俺の周りを少し見ながら言った。
「あ、うん。今日は、ふらっと架橋まできちゃってね。散歩みたいな感じで……。それより、俺ってそんなにいつも誰かといる?」
「うん、そうじゃない?学校に来るときも、相変わらず陽一君と美里ちゃんと一緒でしょ?帰るときも、早紀ちゃんと一緒に歩いてるの、何度か見たことあるし」
陽一や美里が出てくるのはいいとして、早紀の名前が出てくるとは思わなかった。
「早紀は、部活……同好会で一緒で、帰る方向も一緒だから……って言っても、校門出てすぐのところまでだけど」
何となくムキになってしまう。
「そう……?それに、一条君とか、嵐さんとかとも、よく一緒にいるじゃない」
「んー……まぁ、あいつらはクラスメイトだし……。それより、麗ちゃんこそ一人?」
俺もそうだが、麗ちゃんの周りには、麗ちゃんの連れのような人は見当たらない。
「私も一人よ。ちょっと、絵の具とか買いに来たんだけど……」
そう言われて気付いたが、麗ちゃんの後ろにある店は、画材屋だ。麗ちゃんは中学では美術部に入っていて、幾つか賞を受賞したのを覚えている。そして高校でも、美術部に入っている。一度、麗ちゃんの絵を見たことがあるが、凄く綺麗な風景画だった。
「わざわざ、絵の具を買いに行くのに付き合ってくれる人もいないし」
「美術部の友達とか、誘ってみれば良かったんじゃないの?」
そう言うと、麗ちゃんは軽く苦笑した後、
「……まだ、美術部で親しい友達がいないのよ。私ってホラ、友達とか作るの下手だしね」
確かに、麗ちゃんはどちらかというと口下手なタイプだ。今でこそ、俺とは普通に会話しているが、出会った当初は余りまともな会話にならなかったのを覚えている。
しかし、今はその麗ちゃんの性格に感謝してしまう。
「何なら、これから俺のこと誘ってもいいよ。今日みたいに、一人でブラブラすることも多いし」
「そう?それじゃ、これからそうしようかな……」
その返事を聞いた俺は、顔では笑っていたが心の中ではガッツポーズを取りながら小躍りしていた。世の中のカップルは、きっとこういう忠実なことが積み重なって、恋人同士になったりするのだろう。
しかし、俺は意外と『押せ押せ』なタイプなのだろうか?少し調子に乗って、
「麗ちゃん、この後の予定は?良かったら、一緒にブラブラしない?」
なんて誘ってしまう。ブラブラを逆から読んだら、ラブラブじゃーん。などとくだらないことを考えている傍らで、麗ちゃんは、
「いいよ。私もブラブラするつもりだったから」
ひゃっほーぅ!心で叫んでしまった。
やはりこれはデートなのだろうか?まさか、偶然の出会いがデートになるとは思いもしなかった。今日一人で架橋に来たのは、まるで麗ちゃんとデートするためだったようだ。しかし、俺はその浮ついた気持ちを悟られないように、
「あはは、良かった。一人で来たはいいけど、誰かと来れば良かったって後悔してたんだ」
そう返した。
「で、麗ちゃんはこの後どこに行こうとしてたの?」
「画材屋とかブティックとか、本屋とかよ。啓祐君は?」
「俺も似たようなもんだよ。楽器屋とか本屋とか、服屋とか。まぁ、麗ちゃんの行きたいところに行っていいよ。俺、別に買う物もないし」
正直なところ、麗ちゃんと一緒に歩けるだけで満足だった。ところが、麗ちゃんは、
「あ、そうだ!それなら、『ビッグバン』に行こう?」
『ビッグバン』は架橋にある遊園地で、敷地の広さは田舎ながら県内一である。麗ちゃんは、このGW中にオープンしたジェットコースターに乗りたかったらしい。ところが、一緒に行ってくれる人もいないので行っていなかったのだが、今日俺と偶然出会って、後は知っての通りだ。
俺は俺で、ただ舞い上がる一方だ。女の子と一緒に遊園地に行くなんて、デート以外の何者でもない。
女の子と一緒に遊園地に来たことがないわけではない。ただ、その相手が美里だとデートという感じはほとんどしないし、それにいつも陽一も一緒だ。俺たち三人のうち、二人いれば、もう一人も必然的に同じところにいるケースがほとんどだ。
中学の時に一度だけ早紀と来たこともあるが、正確にはバンドのメンバーと一緒に来たので、ジョニーや、当時ジョニーと付き合っていたボーカルの女の子も一緒だった。大体、早紀が相手ではデートも修羅場と化す。あの時は形としてWデートっぽい感覚だったが、俺のパートナーが案の定早紀だったので、デートという感覚はまるでなかった。時間の半分くらいはバンドの話、残り半分が口喧嘩だったような気がする。
だが今日は一緒にいるのが麗ちゃんだ。今までにない、新感覚。
俺と麗ちゃんは一日パスポートを買い、ビッグバンへ入った。
「じゃ、早速そのジェットコースターに行こうか?」
「うん」
入り口で貰った地図を見ながら、俺たちは歩き出した。
目的のジェットコースターは、『パシフィック・スラッシュ』という名前で、三分の二が水中を走るという。水中と言っても、水の中に飛び込むのではなく、水に設置された透明のループトンネルの中を進むのだ。
だが、パシフィック・スラッシュは、このGW中に開始しただけあって、凄い混みようだった。行列の最後尾には、一時間五十分待ちという立て札が立っている。ディズニーランドのようなスケールの大きい遊園地ならばともかく、この遊園地でこの待ち時間は、ある意味で奇跡だ。
「……一時間五十分ん〜?」
パシフィック・スラッシュの乗り場まで来たはいいが、俺は正直なところ並びたくなくなった。ふと隣を見ると、麗ちゃんもちょっと遠慮したいような顔で、
「啓祐君、他のところ回って来ようか?」
そして苦笑した。
「そうだな、これじゃぁ……もうちょっと少なくなるの待とう」
俺はもう一度マップを広げ、
「じゃぁ、何処に行こう?」
他の乗り物と言えば、別種のジェットコースターやメリーゴーランド、観覧車、そしてお約束のお化け屋敷などである。俺たちは観覧車や別のジェットコースターなどに乗った後、コーヒーカップに向かった。名前を、『ローリングカップ』という。何だかそのまんまの名前だ。
もう西の空が茜色になっている。
こちらローリングカップは、新登場のパシフィック・スラッシュに客を取られたのか、それとも単に人気がないのか、ほんの十分ほどで乗れた。他の乗り物も、十分とまで早くなかったが、結構早く乗れた。
他の客は、カップル同士や親子が多い。流石に、男友達同士という寒いグループはいない。俺と麗ちゃんは一緒に一つのカップに乗り込むと、中央のハンドルを挟むように向かい合って座った。何だか照れる。
間もなく、コーヒーカップが動き出した。流れる景色と風が気持ちいい。空には少し西に傾いた太陽が照っている。いい日和だ。
だが、そう思うのも束の間、段々回転速度が上がっていく。空に向けていた視線を戻すと、麗ちゃんが笑顔でハンドルを回していた。
「ちょっ……麗ちゃん」
「なぁに?」
速度は上がっていく。俺は思わず身体を強張らせてしまいながら座っているが、麗ちゃんは無邪気にハンドルを回す。
「結構速くなるんだね」
「あの、麗ちゃん、結構速くじゃなくて……」
「えっ、何?」
相変わらず麗ちゃんの笑顔は変わらない。それに対して、俺の顔は徐々に引きつっていく。
「れ、麗ちゃん、もうこれ以上速く……」
しないでくれ、と言わんばかりに俺はハンドルを掴んだが、もう回転速度は十分に速かった。
「あはっ、啓祐君、どうしたの?」
俺はかなり参っているのに、麗ちゃんは笑顔。だがここで弱音を吐くような真似は出来ない。俺は思い切り無理して、
「大丈夫だよ」
平気な顔をして見せた。
「うー……」
「ごめんね、啓祐君……」
「あ、いや……うっ」
無理がたたったのか、コーヒーカップを降りる頃には気持ち悪くなっていた。結局麗ちゃんの前で醜態を曝すなら、弱音を吐いておけば良かった。
「ちょっと休む?」
「あ、うん。そこのベンチ……」
俺はすぐそこにあったベンチを指差した。
「あ、啓祐君、何か飲み物買ってこようか?」
「……じゃぁ、炭酸じゃないヤツなら、何でもいいから、よろしく」
それを聞いて、麗ちゃんは売店へ、そして俺はベンチに向かった。
麗ちゃんの家には行ったことがないが、恐らく厳しい家庭だと思う。仮にもYKコーポレーションのお嬢様だ、礼儀作法などバッチリなのだ。俺たちとは違ったオーラのような物を感じる。しかしその中で、同世代の俺たちと一緒にいることで、どこか弾けたい部分があったのだろう。それが今日、ついに弾けた。そして、結果的に俺は気持ち悪くなってしまったのだが。
それでも、麗ちゃんの正直な部分に触れられたことを考えれば、苦にならない。
「はい、啓祐君」
大空を仰ぎながら休んでいると、やがて麗ちゃんが戻ってきた。
「オレンジジュースで良かった?」
「あ、ありがとう。いくらだった?」
「いいわよ、お金なんて」
俺は麗ちゃんからオレンジジュースをもらうと、一気に半分くらい飲んだ。麗ちゃん自身も、オレンジジュースを飲んでいる。
「はーっ、大分良くなったよ」
「ごめんね……」
麗ちゃんが本当にすまなそうな顔をする。
「んやぁ、いいよ謝ンなくて。俺も楽しかったと言えば楽しかったし。……しっかし麗ちゃん、タフだよね」
「えっ?」
「だって、あれはいくらなんでも速すぎると思ったのに、麗ちゃん終始笑ってるんだもん」
「ごめんね、そんな速くなってるなんて思わなかったから」
と、コーヒーカップの方へ目をやった。ここからはコーヒーカップは見えない。
「昔、バレエやってたせいかな」
思い出したように言った。
「麗ちゃんバレエやってたんだ。もう、やってねぇの?」
「うん、小学六年までね。……そう言えば啓祐君。啓祐君も、小学校までピアノ習ってたんだってね」
俺は素直に驚いてしまった。麗ちゃんがそんなことを知っているなんて。
「何で知ってんの?」
「前に、ジョニー君が言ってたから。結構意外だなって思って、覚えてたんだ。あ、でも啓祐君バンド組んでるんだよね」
「うん。ま、バンドではピアノはやってないけど」
もうずいぶんピアノを弾いていない。
ピアノは、元々は俺のお袋のものだ。親父と離婚はしたが、何故かピアノだけが残っていた。親父はピアノなんて弾けないので、俺が習いだしたのだ。幼稚園の年長の時から習い始めたから、大体七年くらい習っていたことになる。
だが実際、バンドを始めるきっかけの一つに、俺がピアノをやっていたというのも含まれるし、音楽をやる上でも結構ピアノの経験が役に立つこともあるし、やっていて正解だったとは思っている。
「さて、そろそろパシフィック・スラッシュに行ってみようか?あんまり変わってないかも知れないけど」
「あ、もう大丈夫?」
「うん、もう何ともないよ。直った」
と、残りのオレンジジュースをの飲み干した。
「ゴミ、私が捨ててくる」
「あ、悪いね」
俺は空になった紙コップを麗ちゃんに渡した。麗ちゃんもいつの間にかジュースを飲み終えている。
それにしても、未だに信じられない、麗ちゃんと二人で遊園地にいるなんて。麗ちゃんと逢ったときですら、デートなんぞ出来ると思っていなかった。しかも、麗ちゃんからこのビッグバンに行きたいと言い出した。まぁ、これが俺と一緒に行きたかったから、なんて言ってくれていたら最高だが。それでも、パシフィック・スラッシュに乗る相手に俺を選んでくれただけでも、十分幸せだ。
……ところで、麗ちゃんが遅い。確かにゴミ箱はここから少し遠いところにあったが、いくら何でも遅過ぎる。
「……どうしたンかな」
俺はベンチで待っていたが、麗ちゃんが向かった方向に歩き出した。麗ちゃんが向かったと思われるゴミ箱は、俺が座っていたベンチからは死角になっているが、少し歩けばすぐ見える。そのせいで、麗ちゃんがなかなか来ない理由がすぐ分かった。
「あっ!」
俺は慌てて駆け出した。麗ちゃんが、ゴミ箱の手前で男二人と何か話をしている。穏やかな雰囲気じゃない。
「麗ちゃん、どうしたの?」
「あ、啓祐君……」
「何だおめー?」
いかにもチーマーな恰好をした二人組だ。二人とも茶髪の坊主で、一人は鼻に一つ、もう一人は耳に幾つものピアスをしている。
「私、この人とぶつかっちゃって……」
それで、この二人組が麗ちゃんにイチャモンをつけてきたというのか。まだそんな人種が存在するのか、流石田舎だ。
「麗ちゃん、謝ったんしょ?」
「うん……」
それならば、麗ちゃんがここで足止めを喰う必要はもうない。
「じゃ、行こう」
俺は麗ちゃんの腕を取って、半ば強引にこの場から去ろうとした。だがやはり、
「ちょっと待てよ」
鼻ピアスが俺の肩を掴んだ。
「何だよ、こっちは謝ったんだし、もういいだろう?それとも何か、詫びが足りねぇとか言うのか?」
と、俺は強引に肩を捕まれた手を振りほどいた。
「てめーは関係ねぇだろうが」
「このコは俺の連れだ、関係あるぜ」
思わず喧嘩腰になってしまったが、麗ちゃんの前だし、穏便に済ませたい。それに、早紀にも耳にタコができるくらい、喧嘩はするなと言われている。
そこで俺は、
「あ、警備員さーん」
丁度近くに警備員のオッサンが歩いていたので、手を振って呼んだ。案の定、チーマー二人組は舌打ちをして逃げていった。
「どうしました?」
警備員の問いに、
「あ、いえ、もう大丈夫みたいです。あいつら逃げていきましたから。ドモ、ありがとうございました」
俺たちは軽く礼を言って、パシフィック・スラッシュへ向かった。
「啓祐君、ありがとう」
「いや何、大したことしてないよ。礼ならあの警備員さんに言って……て、もう言ったんだっけ」
何にしろ、麗ちゃんの前で喧嘩にならずに済んで良かった。下手したら、殴り合いにもなり兼ねなかった。とりあえず俺も、丁度通りかかった警備員さんに感謝だ。
気を取り直し、俺たちはパシフィック・スラッシュへ向かった。待ち時間は確かに短くなっていたが、それでも一時間待ちである。一時間後と言えば六時を過ぎる。麗ちゃんの門限もあるし、ここで妥協して並んだ。
「でも、一時間半も並ぶよりはマシだったよね」
と、麗ちゃん。やっぱり嬉しそうだ。麗ちゃんが嬉しければ、俺も嬉しい。
だが実際のところ、麗ちゃんは俺のことをどう思っているのだろう?少なくとも、嫌いということはないだろうけど。今日俺のことを遊園地に誘ってくれたのは、友達としてか、それともそれ以上と思ってなのか。麗ちゃんのことだから、都合のいい男と思っているという確率はないと思う。勿論、恋人のように思ってくれているのなら、当然言うことはないが、そこまで世の中甘くないだろうから、せめて友達以上恋人未満というのが関の山だろう。
並んでいるとき、麗ちゃんと他愛もない話をしながらそんなことを思っていると、
「啓祐君みたいなタイプって、珍しいよね」
不意に麗ちゃんが言った。会話とは別なことを考えていたので、会話の流れは余り覚えていない。
「え、何で?」
多少ドキリとしながら訊き返すと、
「だって、男友達も女友達も万遍なくいるじゃない?」
「そ、そう?」
「うん。美里ちゃんとか、早紀ちゃんとか、あと嵐さん……」
確かに彼女たちの名前を挙げられたら否定は出来ないけど、余り意識はしていなかった。小学、中学と、幼馴染みの美里のことは何度か言われたことはあるが、今のように改めて言われたのは、恐らく始めてではないだろうか。
だが、麗ちゃんは次にこう言った。
「それに、一応私も……」
その言葉で、少しだけ気落ちしてしまった。分かっていたことだけど、やっぱり俺は麗ちゃんにとって『友達』なのだ。
「でも……うーん。美里は生まれた頃からの幼馴染みだから兄弟みたいな感じだし、早紀はバンドのメンバーで、嵐さんはどっちかって言うと男友達って感覚だし……」
何故か言い訳してしまう。それでも、麗ちゃんのことは言い訳できなかった。
「あ、私は、それは凄いことだって思ってるんだよ?」
「何で?」
「だって、啓祐君の周りの友達って、絆が深いと思う。特に陽一君と美里ちゃんなんか凄いよね、生まれたときからだもん。早紀ちゃんとだって、いっつも口喧嘩してるけど、結局友達でしょ?」
早紀のことをそう言われたのは初めてだ。バンドの時だけ仲がいいと言われたことがあるが、バンド抜きでそう言われたのは、これが初めてだ。そして、そのことに否定もできない。だから、
「あ、ああ、まぁ……」
そう答えることしかできない。
「でも……あの、嵐さんって、怖くない……?」
「ラン?」
確かに、性格がが一八〇度違う麗ちゃんには、ランの存在は驚異と言えるかも知れない。喋り方だって男勝りで、しかも乱暴。今でも、教室でランとまともに話せるのは俺とジョニーくらいだ。それ以外でも、陽一、美里、早紀、翔と、指折り数えられるくらいだ。柔道部でも、女子との会話は少ないという。
「まぁ、確かにあいつは過激なところあるけど、ちゃんと筋は通してるし、基本はいいヤツだよ」
これは言い訳なんかじゃない……と思う。趣味がナンパ殺しだとは言っていたが……。ナンパ殺しとは、町でナンパされたらラン自身が人気のないところに誘い、そして蹴る、殴るなどする事だ。ランに言わせれば、女を顔で選ぶのは失礼以外の何者でもないから、殴る理由になるとか。
だが逆に考えれば、婦女子に危害が及ぶことはない。だから、麗ちゃんがランを恐れる理由なんて何処にもないのがけれど、所詮そんなものは理屈でしかないから、麗ちゃんに怖がるなと言っても無理な注文だ。
話をしているうちに、とうとうパシフィック・スラッシュに乗る順番が回ってきた。もう空は暗く、遊園地にも明かりが目立ってきた。
「なんか、ドキドキするね」
俺と麗ちゃんは並んで座った。前から三番目だ。
そして、定員数が埋まって間もなく、ブザーが鳴り、遂にパシフィック・スラッシュが動き出した。
ゆっくりと前進する。この遅さが、まるで嵐の前の静けさだ。ジェットコースターのお決まりのパターンだ、山の頂点から一気に……。
「んふぅっ!」
思わず声が出てしまう。凄まじいスピードで、斜めの角度から地面が近付く。隣で麗ちゃんも悲鳴を上げているのが聞こえるが、すぐにそんなことを気にできなくなる。一切の物が過ぎ去って行くような感覚に襲われる。
地面に激突する前に、ジェットコースターはレールに沿って地面と平行に走る。だが、それも束の間、今度は右に傾きながらカーブを回って行く。
そして、少し高いところまで駆け登った後、遂に俺たちは眼下の深いプールの海原へ臨んだ。予定通り、水中にループコースが設けられているが、地面が迫るのとはまた違う迫力がある。独特の水のニオイが、近付いてくる。そして、ジェットコースターの音が変わり、水中へ。ループが透明だから、本当に水の中を走っているような感覚だが、そんなことを感じられる余裕もなくなる。ここで、また何度か捻るように走り抜け、そして再び闇に覆われそうな大空へと向かう。
このジェットコースターの概要は、大体これの繰り返しのようなものだ。だが、パシフィック・スラッシュの目玉は一番最後にあった。
水に入ったと思うと、徐々にスピードが落ちてきた。もう終わりなのかと思ったが、水中だ。ゴールはスタート地点と同じだから、まだ終わりではない。
スピードが、辺りを観察できる余裕が出来るくらいまで落ちた。
「何だろう?」
思わず隣の麗ちゃんに訊いてしまった。すると、
「あ、啓祐君、魚!」
麗ちゃんが指を差すその方向に目を向けると、綺麗な魚の群があった。よく見ると、逆の方向にもいるし、足下の水中にもいる。大きさや種類も様々で、エイのようなものもいる。それらが、照らされたライトの中で泳ぎ、幻想的に見える。
三六〇度の大パノラマで、生きている魚が見られるとは思わなかった。しかも、ジェットコースターに乗りながらだ。今はジェットコースターと言えない速さだが。
俺は今乗っているのがジェットコースターだということも忘れて、溜息を吐きながら辺りを見回すばかりだった。
そして、その速度のまま、ゴール地点へと着いた。
「はぁー、最後ビックリしたな」
「うん。あれが、ここの見せ場みたいだよ」
そんなことなど全く知らずに乗っていたから、かなり不意をつかれた。ジェットコースターだが、ジェットコースターらしからぬ演出。だが、スピードが遅くなる期間を少し長くしてのあの演出は、必ずしもミスマッチとは思えなかった。
「じゃ、帰ろうか。もう遅くなったし」
「うん。啓祐君、今日はありがとうね」
「ん……俺も楽しかった」
空の色が夜模様になっていく。俺たちはビッグバンを後にした。
ここから駅までは、歩いて約二十分ほどだ。バスも出ているが、俺たちは歩いて帰ることにした。今から帰る客が結構多く、バスが満員なのだ。麗ちゃんの門限はあるが、まだ大丈夫らしいので、歩くことにした。
俺も俺で、麗ちゃんと一緒にいられる時間が長くなって、上機嫌だ。
だが、その上機嫌も長く続かなかった。
俺と麗ちゃんが逢った縞田通りで、俺は突然背後から腰を蹴られた。何とか転びはしなかったが、不意をつかれて息が苦しい。
「ぬ……」
腰を押さえながら振り返ると、
「よぉ、また逢ったな」
遊園地で麗ちゃんに突っかかってきたチーマー風二人組がいた。鼻ピアスと耳ピアスだ。歩いている人たちが、何事かと見ながら通り過ぎる。遠巻きに見ているのもいる。
「……てめぇら……!」
「け、啓祐君大丈夫!?」
俺は麗ちゃんに手で「心配ない」と示すと、ヤツらと向かい合った。ヤツらはニヤニヤと笑みを浮かべている。
どうする?確かに一番手っ取り早い方法は喧嘩だと思うが、それは避けたい。かと言って、逃げるというのも、俺一人ならば何とかなるが、麗ちゃんが一緒だから難しい。口で言って納得してくれる連中ならば、こんなに悩むこともない。
「……麗ちゃん、先に駅まで行ってて。すぐに行くから」
やはり喧嘩を避けて通る道ないようだ。それならばいっそ、麗ちゃんにそんなところを見られたくない。
「でも……」
「早く!」
くそ、なんてことだ。最高の休日と思っていたのに、最後にこんなヤツらに関わってしまうとは。それに麗ちゃんも、駅になかなか行ってくれない。心配してくれるのはありがたいが、ここは駅に行って欲しい。
そんなことを思っていると、鼻ピアスが俺の肩を掴み、
「ちょっと来いよ。そこのコも一緒によぉ……」
肩を掴む手に力が入っている。
「痛ぇな」
俺は上腕でその手を振りほどいた。振りほどいたが、思わずそのままそいつの手首を掴み、捻り上げてしまった。鼻ピアスの身体が裏返る。これだけで、人間の身体は意外と動けなくなるものだ。
別にやろうとしてやったわけではなかった。鼻ピアスの手を振りほどいたら、丁度ヤツの手首が掴みやすいところにあったので掴んでしまい、そのままクセで捻り上げてしまった。
「いっ痛ぇ!放せ、てめぇ!」
だが、考えようによっては、強引な話し合いに持ち込める。しかも、俺が今やっていることは、殴ったりすることよりもよほど平和的だ。尤も、この体勢から関節を外したりもできるが。
「おい、もう俺たちに構うな」
少しずつ力を入れながら言った。ほとんど脅しに近いが、仕方ない。耳ピアスの方も、コイツが人質に取られたような形になって、動けないでいる。
「痛ててて……!」
「分かったか?」
「……いっ、分かった……」
それを聞いて、俺は手を離すと、すぐ背中を押した。
「…………!」
二人組は俺を睨んだが、俺もあいつらを睨んでいる。二人組は、また舌打ちをして去っていった。
「ふぅ、なんて連中だ」
「啓祐君、何ともない?」
「あはは、俺は……」
何もされていない、そう言おうとしたが、それよりも先に、
「オラァ!」
また背後から蹴られた。今度はかなり力が入っていて、俺は膝から地面に転んでしまった。
「啓祐君!?」
「ぐぬ……」
膝をついた姿勢で振り返ると、そこに鼻ピアスと耳ピアスの姿があった。しかし、鼻ピアスは容赦なく、膝をついている俺の鼻面を狙って蹴りを放った。何とか鼻に当たる前に、蹴りは防げた。だが、俺自身がもう止められない。
麗ちゃんや他の人がたくさん見ているが、俺はその足を掴んだまま立ち上がり、爪先を外側に捻った。
「ぅあっ!」
情けない声を出して、今度は鼻ピアスが地面に突っ伏した。俺の手にはヤツの靴が残っている。
俺はその靴を叩き付けるように捨てると、二人に歩み寄った。
だが、
「おい啓祐、何やってんだ?」
俺の正面から、聞き覚えのある声がした。
「ん、何だ、こいつらは?啓祐のオトモダチか?」
「……こんな馬鹿共、知らねーよ」
「まぁ、穏便に済ませよ」
「哲也さんに言われたくないな」
昼間、麗ちゃんに逢う前に逢った、哲也さんがいた。
「ウチの兵隊貸してやってもいいぜぇ」
「あのね、ガキの喧嘩にヤクザが出て来てどうすんだよ」
思わず言ってしまったが、もう遅い。目の前の二人が青ざめた。いや、このチーマー共はどうでもいい。麗ちゃんは俺の背後にいるが、どう思っているのだろう?
この加納哲也さんが、俺の知り合いのヤクザ屋さんで、加納組の跡取り息子だ。
「あ、それより哲也さん、こいつら喧嘩好きそうだし、哲也さんトコで使ってやったら?」
「駄目だ、根性がなさそうで鉄砲玉にもなりそうもねぇからな。それより、お前が来ないか?」
まだ俺のことを諦めていなかったようだ。
「嫌なこった」
その時、二人組は突然脱兎の如く逃げ出した。
「あ」
「いいのか、啓祐?」
「別にいいよ」
二度も蹴られて、頭にきていることはきているのだが、麗ちゃんの手前、これで終わりにしておこう。
「んじゃ、俺ら帰るから」
「送るか?」
「いいよ。バイバイ」
「気ィつけてな」
俺は麗ちゃんに「行こう」と合図をし、歩き出した。
だが、麗ちゃんは俺のことをどう思っているのだろう?さっきからそれが気になる。俺がヤクザと知り合いだと知られてしまった。噂で聞いたことがあるかも知れないが、噂ではなく真実だと気付かれてしまった。
「……やっぱり啓祐君の周りって、いい人ばっかりだよね」
「えっ?」
不意に麗ちゃんが、予想外のことを言った。
「あの人が、啓祐君の知り合いのヤクザさんでしょ?」
「……知ってたの?」
噂で聞いたことがあるのではないかと予想はしていたが。
「早紀ちゃんが、中学の時に言ってたから」
早紀と言えば、俺が哲也さんと知り合ったときに一緒にいたし、そもそもあいつが原因で哲也さんと知り合うことになったのだった。そうすると、麗ちゃんが聞いたのは、元々噂ではなく真実だったということになる。
「さっきの……哲也さんって人、きっとわざと大事にならないようにしてくれたんだよね」
そう言われてみればそうかも知れない。急に、「ウチの兵隊貸そうか?」なんて言い出したが、あの言葉にはそういう意味が込められていたのかも知れない。わざと自分がヤクザだと知らせ、あの二人組の戦意を喪失させた。結果的に哲也さんがヤクザだとばらしたのは俺だったけど。
「……でも、今日は楽しかったぁ。啓祐君、ありがとう」
「あ、いや……」
その笑顔で、最後のもめ事も救われた気がする。
俺の機嫌もいつの間にか直っていた。
空はほとんど闇に覆われ、代わりに町のネオンや照明が点き始めた。今日のデートはもうお終いだ。だが、いつの日かきっと、今日のように二人で遊びに行くのが自然になるようにしてやる。
その時は、またビッグバンに行こう。
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